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何故、今と歴史との連続感が無いか

歴史は過去の"事件"ではなく、"今"は歴史の連続点の先端でしかない。しかし。
歴史は過去の事。
そういう言葉を昔からよく聞く。
これは、体制迎合的市民を作り出す事を国是として邁進してきた自民党政権の成果ではないかと。
教科書、法律、声明、etc…正規の文言上は対外的に色々ちゃんとしている、と言うけれど、実際の運用は"くさいものにはふたをする"価値観によるバイアスを掛けてされる。
暗黙律が存在するんですな。
でもそれは外には通用しない。暗黙律ですから。
そこを教えていない。
これが自分たちの文化だ、と誇るのは構わんのだが、それは外とは違うから、外には通用しないんだ、と言う事も教えないとね。
ともあれ、そうして、今、正規の文言上は色々ちゃんとしている、ことだけを教えて、歴史を客観的に見た時、実際に何が起こったのかを"想像"する事を意図的に訓練させないようにしているから、現在と歴史の間に連続感がなくなるんだと思う。何十年掛けて、歴史に蓋をしているわけさ。体制迎合的市民=蓋。
空恐ろしい事だと思う。
自民党はそれを本気で正しい事だと思ってるところが、一番やばいのだ。政策上民主党と変わらんやん、とか言ってる人は、なんにも見えてない。


 歴史を学ぶ時、断片的事実から"想像"して、不明な部分を補い、検証すべく調査し、過去を学び、過去に学ぶのは、歴史教育のあるべき姿だと思うのだが、それをしていない、と言う事は、歴史から学ぶ事も放棄すると言う事ではないか。それでは、本当の意味で、歴史を尊び、文化を敬い、自身に誇りを持つ人間が育つわけが無い。なぜなら、歴史こそがそれらの源泉となるはずだから。せっかくの先人の経験も英知も誇りも文化も、意図的に捨てているのだ。
そんな有様で、やり方で、何の美しい国、誇り高い民族なのか。


 過去を水に流す、と言うが、過去の苦難は成長し乗り換えるものであって忘れられるものではない。個々人で苦難にぶつかってもそうなのだから、社会でも然り。社会は人の集まりだ。
 過去は過去として、未来志向で、と言っているが、いつかは乗り越え、成長しなくてはならない時が来る。歴史は不動で、永劫変わる事などないのだ。
 仮に水に流す文化、なのだとしたら、その価値観は良くも悪くも自分たちに独特の感覚なのだと言う事を肝に銘じて、自覚する必要がある。水に流せるのは価値観を共有している場合だと言うことを学ぶべきだ。


 メモ。時間的価値観について、この本面白そう < 日本文化における時間と空間